先人の教え

緒方洪庵の生き方に学ぶ-利他と利己-

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 世のためにつくした人の一生ほど美しいものはない。

 今回は、ある2人の成功者の人生を交互に眺めながら、人の偉大さや人生の美しさについて考えていきたい。

対照的な2人の成功者

 その2人とは、緒方洪庵藤田田(ふじた・でん)である。

 緒方洪庵は幕末の医師であり、蘭方医学(オランダの医療技術)を学ぶ私塾『適塾』を立ち上げた人物だ。適塾の建物は大阪市中央区北浜3丁目にいまも残されており、中を見学することができる。建物の一室で大切に保管されている門人帳には、福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、箕作秋坪など、幕末や明治初年に活躍した多くの人物の名が残されており、門人の数は累計で3000人を越えたという。

 一方の藤田田は戦後日本の代表的経営者の一人で、日本マクドナルド日本トイザらスの創業者だ。かれは1950年の東京大学在学中に輸入雑貨店「藤田商店」を設立し、1971年には日本マクドナルド、1989年に日本トイザらスを展開した。かれはすぐれた経済感覚と経営手腕で業績を伸ばし、遺産総額はなんと491億円に及んだ一代のカリスマ経営者だった。

 緒方洪庵も藤田田も、その人生において大きな成功をおさめた人物であるという点で共通するであろう。しかしこの稿で考えていきたい主題は人の人生の偉大さと美しさということであり、この点において2人は大きく異なっている。真に偉大な人物というのは、世の中の役に立った人物であり、真に美しい人生というのは他人のためにつくした人生である。その点、藤田田はたぐいまれな成功者ではあっても、偉大な人物であるとは私にはどうしても思えない。

世のため人のためにつくした緒方洪庵

 そういう意味で、緒方洪庵ほど美しく偉大な人生を送った人物はいないであろう。

 門人の福沢諭吉に「類まれなる高徳の君子」と呼ばれたように、洪庵は底抜けに優しい心をもった医師であり、つねに他人のために生き続けた人であった。かれは門人たちに向けて12か条の訓戒を書いているが、その第一条、第八条はそれぞれ次のようである。

1.医者がこの世に生きているのは、自分のためではなく、他人のためである。私利私欲を捨てよ。有名になることなど考えてはならない。ただ人を救うことだけを考えよ。

8.診療代を高く取ってはならない。治療で命を救ったとしても、命をつなぐのに必要なお金を奪ってしまっては本末転倒ではないか。

(原文:(1) 人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、ただ己を捨てて人を救はんことを希ふべし。(8) 病者の費用少なからんことを思ふべし。命を與ふとも、命を繋ぐの資を奪はば、亦何の益かあらん。)

 かれはおだやかな人柄で、病人には親切で、その心はつねに慈愛に満ちあふれていた。医師として多くの人々を病苦から救ってきたことは言うまでもない。しかし、洪庵にはそれと同等か、あるいはそれ以上に大きな功績がある。かれは近代日本成立の土台をつくった人物でもあるのだ。

明示を牽引する人材を多数輩出した「適塾」

 日本史における緒方洪庵の功績を説明すれば、かれが開いた私塾「適塾」から、大村益次郎や福沢諭吉といった近代日本の立役者たちを数多く輩出したことであろう。大村益次郎はのちに明治陸軍の創立者となり、福沢諭吉は維新・文明開化の思想的な先導者となった。

 余談ながら、慶応大学が福沢諭吉の慶應義塾を源流としているように大阪大学は洪庵の開いた適塾をその前身としており、その建物は国有財産として同大学の管理下にある。この点、大阪大学は政府の開いた国立大学でありながら、私学のみが持ちうる校祖をもっているという特殊な事情を背負っている。大阪大学は筆者の通う大学でもあるため、洪庵をより身近に感じざるを得ない。

 適塾は蘭方医学を学ぶための塾、つまり医者になるための塾だった。しかし門生たちの幅広い活躍をみればよく分かるように、適塾はかれらに単なる医術や語学力以上のものを身につけさせた。蘭学を通して伝授された洪庵の科学的合理的思考が、この門下にむらがった青年たちに計り知れない思想的影響をあたえたのである。

 大村や福沢の他にも、たとえば越前福井藩に生まれた橋本左内は、適塾で学んだのちに藩主松平春嶽の政治顧問になり、十五代将軍徳川慶喜の擁立運動にも関わった。また大鳥圭介は蘭学のほかに兵学なども学び、戊辰戦争ののちに明治政府に仕え、陸軍省、外務省、工部省の要職を歴任している。

 洪庵自身も弟子たちのそういうさまざまな方面での活動を期待していたらしく、世が開明期であるために、蘭学を学んでもかならずしも医者になる必要はないというのが洪庵の方針だったようである。適塾の「適」の字義のとおり「一人一人に適した道に進ませる」という気分が塾風としてつよかったのであろう。

 ともかくも、そのような洪庵が世の中にあたえた影響は非常に大きい。かれは医者として多くの命を救ってきただけでなく、「上医は国を医す」という言葉の通り、幕末の混迷期の日本を救う一人になったのである。世のため人のためにつくした人の一生ほど美しいものはない。

公益を犠牲にした藤田田

 一方で藤田田は、事業家として大きな成功をおさめたものの、その人生が社会や人々のためになったかどうかという点では極めて疑わしい。

 藤田田が日本にマクドナルドを持ち込んだことはすでに述べたが、かれはその際に驚くべき発言をしている。

日本人が背が低くて肌が黄色いのは、2000年もの間、魚と米しか食べなかったから。日本人がマクドナルドのハンバーガーを1000年ほど食べ続ければ、背が高くなり、肌は白くなり、金髪になる。

また、創業20年後の1991年には、以下のように述べている。

新しい食文化のイノベーターとして、ハンバーガーは、日本人の食生活に完全に定着した。「日本の若者を金髪にしよう。食を通じ世界に伍していける真の国際人を育成できれば」の願いは、昨今の若者の著しい体位の向上を見れば、その仮説の正しさが実証されつつあると確信します。 

 白色人種が勤勉で優秀であるという幻想がまだ真面目に信じられていた時代の発言なので、白人のようになるべきだという発言の趣旨は(今日では時代錯誤もはなはだしいが)まだ大目に見るとしても、ハンバーガーを食べ続ければ背が伸び、肌が白人のようになり、金髪になるなどというのは真っ赤な嘘である。かれが本気でこのように考えていたとは信じがたいので、おそらくハンバーガーを売るためのマーケティング戦略のひとつとしての発言だったのであろう。が、そうであるとすれば余計に罪深い。かれは、お金を稼ぐために嘘をついて不健康な食事を広めたということになる。つまり、私益(個人的な利益)を得るために公益(世の中の人たちの利益や幸福)を犠牲にしたのだ。彼の個人的な成功は、社会や人々のためにはならなかった。

 むろん、日本にマクドナルドを持ち込んだことが公益に反するという意見には異論があるだろう。雇用を創出するなど、公益に適う部分もあろう。が、今日、日本人の食習慣の西洋化が急速に進み、油脂類や獣肉等の摂取が増えたことにより、高度経済成長期以前にはほとんどみられなかった生活習慣病に苦しむ日本人が増えている。日本人の健康的な食習慣を破壊し食の西洋化を押し広める先駆けになったという点において、マクドナルドの導入は公益に反する面があったというのが筆者の個人的な見解である。

利他と利己

 藤田田がビジネスマンとして一流であったことは間違いない。一代でこれほどの商業的成功をおさめた人物の考え方や行動から学ぶべきことは多い。だが惜しいことに、かれは公益を考えて行動する人物ではなかった。かれの成功が世の中の福利に反するとしても、自身の個人的な成功と利益を手放さなかった。かれに酷な言い方をすれば、人々の健康を犠牲にして巨利を得たという言い方も可能であろう。この点、藤田田はすぐれた人物ではあっても偉大な人物ではなかった。

自らの権威を成り立たせる「蘭学」を否定した洪庵

 一方で緒方洪庵は、私利私欲に一切とらわれない人柄で、公益ということでしかものごとを考えない人物であった。そんなかれの特徴がよく現れている逸話を紹介したい。

 かれの適塾は、幕末の混迷期に洋学の需要が高まる中で日本一の蘭学塾と呼ばれたが、幕末は蘭学の繁栄の最後の時代でもあった。

 江戸時代は鎖国の時代であったが、鎖国政策のもとで幕府が交易を許した唯一のヨーロッパの国がオランダだった。江戸時代の志ある若者たちにとって、世界を知るためには蘭学という小さな窓からヨーロッパ文明を覗くしかなかった。

 しかし、そのオランダ国もヨーロッパの小国にすぎないということが幕末になって知られるようになった。この当時のヨーロッパの主役的存在は英国であり、世界の主要言語は英語であった。同じヨーロッパ文明を覗き見するのに、窓は大きいほうがよい。そういう状況下で「これからの時代は蘭学より英学を学ぶべきなのではないか」ということが、幕末になってようやくささやかれるようになった。

 洪庵はその生涯を蘭学の研究と教育に捧げたが、驚嘆すべきことにその洪庵自身が晩年

これからの若い者にとって、蘭学をやるより英学をするほうが良いのではないか

と、門下の俊才に語るようになっているのである。緒方洪庵の権威と名誉は蘭学によって成り立っている。洪庵ほどの大家なら、自分の権威を成立させている「蘭学」というものに固執すべきであった。が、洪庵はどこまでも私利私欲のない人柄で、「世の中の人々のためになるかどうか」という基準でのみものごとを考える人だった。かれはいわば自分自身を否定することによって「これからは蘭学より英学をするべきだ」と勧めているのである。

 洪庵の偉大さは、蘭学より英学のほうが公益のためになると思えば、自分は蘭学の大家であるくせにあっさりと蘭学を切り捨てたところにあるであろう。たとえば福沢諭吉は洪庵の愛弟子の一人であり、一時期は適塾の塾頭もつとめたが、その福沢が適塾を巣立つやいなや蘭学を捨て英学に切り替えたことを、洪庵自身は自分のことのように喜んだ。

 洪庵の時期の日本にあって、かれのような人物は決して珍しいわけではない。人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが武士たちの倫理観であり、人はどのように思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸時代の学問の主題だった。これらが幕末人たちのすがすがしい人物像の基盤であり、また明治維新という世界史上ほかに類を見ない大革命を成立させた要因でもあった。日本史上のどの時代にも、この時代ほど、公益意識というものが人の心を支配していた時代はない。

奥医師としての江戸行き

 別のエピソードも紹介しよう。洪庵の晩年、かれに(一般の人からみれば)非常な幸運が訪れた。

奥医師(将軍専属の医師)にならないか

という誘いを幕府から受けたのである。奥医師というのは日本最高の医師と同義であり、その身分は小さな大名よりも高い。医師としてはこれ以上ない名誉な地位なのである。

 しかし、洪庵はこれを幸運としなかった。かれはすでに、鮮明な主題のもとに充実した人生を生きている。その主題とは、医者として人々を救いつつ、多数の生徒たちに蘭学をおしえ西洋医学を普及させることだった。かれは年を経るにつれてますますこの主題に没頭し、かれ一生の天職ととらえ、それ以外のことに時間やエネルギーを割こうとは思えなかった。そんな充実した洪庵には、奥医師としての名誉や権威など、毛ほども魅力的に感じられなかった。

 幕府からの要請を洪庵は何度も断った。しかし幕府は諦めず、ついにかれは嫌々ながら要請に従った。洪庵は52歳のときに江戸へ行き、その翌年にあっけなく亡くなってしまっている。江戸行きがよほど気鬱だったにちがいない。

 緒方洪庵の一生を振り返ったときに、かれがもっとも楽しく充実していたのは、大阪で医者をしながら弟子たちを教えていた頃だろう。もともと困っている人を放ってはおけない性格であり、弟子たちの面倒を見るのが好きな性分でもあったが、世のため人のためにつくしている時間はこの上なく幸せな時間だった。洪庵にとって、利他と利己の区別ははるかな山の稜線ほどに不明瞭であったに違いない。

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