学校不要論

学校不要論①~変化する学校の役割と求められる教師像~

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 「学校不要論」というものを、近頃はしきりに目にするようになりました。その論の急先鋒とも言える実業家の堀江貴文氏は自身のブログや著書で、学校の負の側面を指摘しつつ、

「学校の外でより効率的に行えることするためにわざわざ学校に行くのは無駄である」

という意味の主張を繰り返しています。過激な論調だとする批判も多く見られますが、学校教育の現状を考えれば彼の論は的を射ていると言わざるを得ないでしょう。このあと詳しく述べていきますが、現状の学校教育の多くは、学校外でも可能なことを学校に集めてより非効率に行ってしまっています。であるとすれば、「学校は不要である」という論は覆しようのない正当な主張ということになります。いくつかの記事に分けて「学校不要論」を取り巻くいくつかの論点について私の考えを記していきたいと思います。みなさんの学校・授業が生徒に提供している価値は、わざわざ学校に来て得る必要のあるものなのかどうか、是非この機会に一度考えてみてください。

日本における学校の成り立ち

 現在の公教育のしくみは、もとを辿れば18世紀のプロイセンに端を発しています。語弊を恐れずに端的に言えば、プロイセン・モデルの目的は、自分の意志で学び、自分の頭で考えられる人間を育てることではなく、機械的に働く従順な市民を生み出すことにありました。一度稼働し始めれば停止したり速度を落としたりすることが困難な蒸気機関の工場で能率的に生産活動に勤しむ労働者を育成するためには、チャイムが鳴るに合わせて予定された次の回へ機械的に進行し、教師の一方的な統裁の下に黙って講義を聞く学校教育のシステムは極めて有効に機能しました。維新後、近代化を急いだ日本も、近代国家に相応しい教育システムを整備するにあたっては古き良き教育のあり方をかなぐり捨ててこのプロイセン・モデルをほぼ原型のまま輸入しました。

 より簡潔に述べれば、これまでのプロイセン・モデルの教育の目的は、機械に合わせて働く一律に平均的な人間を生産することでした。このことの是非はともかく、産業革命以降の近代社会は、そうした教育がうまく機能した時代でした。

社会環境の変化

 しかし、こうした教育目標はすでに時代に合わないものになってしまっています。政府の教育再生実行会議の第七次提言(首相官邸のホームページへリンク)では、世の中の変化と今後の教育のあり方について、以下のように述べられています。

現代の社会は、情報通信技術の発展を背景として、規格化された製品の大量生産、消費が成長を支える工業中心の時代から、より高度な情報・知識に基づく多様で付加価値の高い製品・サービスの提供が成長を支える時代に入っています。インターネットの出現は、人間の知識創造とコミュニケーションの在り方に革命的な進歩をもたらしましたが、今後は、周囲のあらゆるモノがネットワークにつながり、それらが自律、分散的に情報の処理、交換等を行い、新たなサービスや価値を生み出していくことが予想されます。こうしたことに加え、今後、コンピュータの性能が飛躍的に伸び、近い将来には、 様々な労働が機械に置き換わるだけでなく、頭脳労働の一部が人工知能に代替されたり、 高度な頭脳労働において人工知能が人間のパートナーになったりする時代が来ると考えられます。2045年には、コンピュータの能力が人間の能力を上回る技術的な転換点が訪 れるという予測もあり、私たちの仕事や生活に、現在の常識を覆すような変化がもたらされる可能性があります。 また、特に、経済活動における国境はこれから更に希薄になり、国内で仕事や生活を していても、グローバル化の波が一人一人に押し寄せてきます。こうした社会の変化の中を生き抜くためには、人間に求められる能力も変わり続けることが不可避となり、教育の在り方も変わっていかなくてはなりません。また、十人十色の個々の才能に合わせて多様な教育を提供していくことも必要です。

 従来の「機械に合わせて働くことができる人間」は、機械化・自動化の波に飲み込まれてしまうことは必定です。一律な労働者を生み出す教育ではなく、個々に才能を開花させ、各々の幸せを自己定義し、その実現にフォーカスした教育が望まれています。技術によって変化した時代が、教育にも変化を要求しているのです。

求められる教師像とは?

 また、同提言では以下のようにも述べられています。

教育改革は、少なくとも 20 年以上先を見据えて取り組まなければなりませんが、今現在の教育に携わる人たちは現在の常識や価値観を基準にしており、親世代は自分が受け た 20 年以上前の教育を基準にして考えますので、そこには 40 年以上のギャップがあるという指摘もあります。しかも、これから先の社会の変化は、過去の変化とは比べもの にならないほど加速度のついたものとなることが確実です。

 ここで述べられているように、世の中の変化にもっとも疎いのが学校の先生たちです。多少極端な表現であるかもしれませんが、ビジネスの世界で進歩する技術の影響に恒常的さらされ生き残るためにつねに頭のアップデートを求められる実社会の人々とは違い、旧態然とした因循な世界で変化するインセンティブを持たずとも生き残ってゆけるのが学校社会です。

 しかし、教員の頭が古いことによる負の影響は直接的に学習者に及びます。先の引用にある通り、今後の社会への見通しを持たずに最適な教育目的を立てることはできず、目的に誤りがあれば、授業目標の誤り、授業設計の誤り…と連鎖的に誤った教育が生まれます。同提言には「2045年には、コンピュータの能力が人間の能力を上回る技術的な転換点が訪 れるという予測もあり、私たちの仕事や生活に、現在の常識を覆すような変化がもたらされる可能性があります。 」とありますが、これが事実なら、今まさに学校に通っている子どもたちが壮年期を迎えるころにそのような世の中に変化しているということになります。であるとすれば、いま彼らを教育している私たち教員や保護者がそういう頭で教育に関わらなければなりません。世の中の変化に対して最も疎く保守的なのは学校の先生たちであるとよく言われますが、自分たちが生まれ育ったころの世の中の常識でもって教育に関ることは、その負の影響をもろに被る子どもたちのことを思えば、罪であるとさえ言えます。教師が世の中のことに疎い分だけ、学習者が将来不幸になるのです。

無識の指揮官は殺人犯なり。

教育者たるもの、これから世の中はどう変化してゆくのか、今後の社会ではどのような力が求められるのかについて、つねに学び続け、脳みそをアップデートし続けなければなりません。

続きの議論はこちら

学校不要論②~学校教育の価値と課題~

学校不要論③~変わりゆく時代に求められる学校の役割~

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